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頭痛のひどい朝。 [ミギマワリ全開]

些細なこと、些細と思われること、がどうしても許せない。
私のことをさも分かったように、
「幸せな人ね。」
そう言い放った一言がどうしても許せない。
「幸せな悩みね。」
そう言われたこともなぜだか深い傷になって未だに疼く。
傍から見れば、高々二年イギリスに滞在していた女が、
逆カルチャーショックとやら、何やら格好つけたものに悩み、
ついでに大事だと思っていた人、二人に同時に(ここがつらいところだ)縁を切られ、
ただそれだけのことで欝になり、死にたくなっている。そんなところ。


だけど、あたしはどうしても自分のことを幸せだとは思えない。
以前、『生きる』ということに疑問を持たなかったのと同じように、
今は『死ぬ』という願望は当たり前だとも感じているし、
逆に『生きる』ということに疑問を感じている。
何がどうなったのか分からないけれど、
たぶんあたしは今まで生きていた箱から飛び出してしまって、
箱の外の世界を知ってしまったのだと思う。
それから、今まで疑いもなく『生きていた』箱の中を、
隅から隅まで覗き込み、納得してしまったのだと思う。
箱はあといくつあるんだろう。あとはその疑問だけ。


例えば、認知症と診断されたババは96歳。
物忘れレベルの認知。
場所が分からない、名前が分からない。
けれど、食欲はあってご飯はきちんと食べる。
トイレにも自力でいける。
痛いところもない。
そういうババはよく泣きながら訴える。

「みんなに迷惑をかけるから、死にたい。」

四六時中一緒にいるママンはババを叱り付ける。
ババは幸せなのだ、と。
入院している患者さんを引き合いに出し、ババに納得させる。
ババは幸せなのだ、と。


けれど、本当にババは幸せなのか。
親はもちろん、兄弟も友人も亡くなっている。
自分の身内は二人の子供と孫だけ。
子供は自分の家庭を持ち、孫も自分の世界で生きている。
過去の話を共有できる人はいない。
明日死ぬかもしれない。
毎晩、毎晩、そういう恐怖に向かい合う。
本当にババは幸せなのか。
他人を引き合いに出して幸福を査定することはできない。
本当にババは幸せなのか。


「入院している患者さんをあんたに見せたい」
そう言ったママン。
あたしはああ、そうか、と妙に納得した。
ママンはあっち側の人なんだ、とそう思った。
たぶん箱の中で生きている人。
この世界を信じている人。


最近になってよく思うことは、感情が出せなくなったということです。
感受性が鈍くなった。
心から笑うことは未だ無いし、泣くことはあっても、
心の全てをさらけ出して泣けない。
他人と話をしていてもどこか他人事でいるし、
何かにつけて、くだらない、と思う。
善良(だと思っていた)な自分はどこにいってしまったのか。


このまま過ごしていたら廃人になるかも。
そういう危機感から何かと手をつけては
楽しんでいる振り、一生懸命生きている振り、をしていたけれど、
何もかもが無理だった。
あたしの心はちっとも動こうとしない。
傷ついた位置から一ミリも動いてくれない。
他人を憎い、と思ったのも初めて。
今までどんなにひどい仕打ちを受けても、
神様、とか天命、とか、そういうもので解釈できたのに。
他人を憎んで呪いをかけて、それでもなお癒しにはならない。
けれど、もしかしたら、他人に刃を向けられる、ということは、
感情が少し回復しているのかもしれないです。


未だ心療内科は受診していません。
受診して楽になりたい気持ちと、
診断されて、どっちにしろ落ち込むような気がするのと、
周りに心配をかけたくないという八方美人精神のために。


書きたいことをこれだけ書いても
ちっともすっきりしない。
眠いはずなのにちっとも眠れなくて、
朝になり、世間は音を立てていて、
テレビでは重要と思われるニュースが流れて、
おなかもすいていないのにパンを食べながら、
パソコンに向かってちまちま文字を打ちながら、
やっぱりあたしは何もかもがくだらない、そう思う。





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